ドキュで是永から吉澤へ渡った初得点のシーンが別角度から放送されてたけどけっこうコースがない。フットサルってほんと狭いね。「キーパーを引き出して逆サイドの味方にパス、がら空きのゴールに軽く流し込み」という得点シーンが好きな僕としてはかなり悩ましいサイズ。攻撃主体のチームと対戦する機会もなさそうだし四谷戦開始直後にあった高い位置からのカウンターアタックに期待するしかないのか。
あとその時の是永から吉澤へのアシストとなったパスは凄い綺麗なのを出してくれたと思ってたけど、吉澤の足下に若干入りすぎてた感じ。最後に残ってた相手FPを是永がかなり引き寄せようとしてたから、パス出すタイミングとコースが少し後ろになってしまった模様。
同じ番組で藤本が「四谷は全然練習通りにできなくて浅井で少しできてた」というニュアンスのコメントを残してくれたので浅井戦まで細かく見たいんだけど…いかんせん時間がない。月末というサバイバルな時期をひとまず超えられたら雑感くらいはまとめようとは思ってます。
藤本は攻撃の選手だから四谷戦でできてないと感じたのは攻撃に関してのことかな、守備の連係には練習の成果が見受けられていたし。確かに四谷戦は是永のパスカットからのカウンターだったり吉澤の縦パス、あさみの突破といった個人技からのチャンスメイクが多かった。見てる方としてはかなり攻撃的な展開に見えても、やってる方としては練習通りの組み立てと崩しができていと感じるのも頷ける。試合後のあの表情。

今日のFootは笑っただけではなく、ゲストの宮内さんが言ってた若手選手に伝えたいことにかなり脳天ぶったたかれました。「視野を広く6、7割の力で常にプレーできること」というコメント、北澤や吉澤が言っていた「練習で100できてたとしても試合では60か50」、モウリーニョランパードについて(ロナウジーニョと比較してのコメントだったように記憶してるが曖昧)語っていた「どんなに素晴らしい一瞬のプレーより常にベストを出せるランパードがいい選手」そこらへんが一気に繋がった。*1

モウリーニョのコメント(曖昧すぎたのでグーグルで検索)
ランパードはパーフェクトな選手だ。確かにロナウジーニョシェフチェンコは信じられないようなプレーをみせるけど、たとえランパードと交換しろと言われてもお断りだ」
ロナウジーニョ、カカ、シェフチェンコ、世界中には信じられない選手がいます。しかしフランクこそ私の最も好きな選手です。(もし上記の誰かと交換できるとしても)彼は私が他の誰とも代えたく無い選手です!」

全世界が賞賛するロナウジーニョのファンタジックなプレーに点数をつけて100とした場合、ランパードの攻撃への上がりなど地味なプレーはいかに勝利に貢献したとしても100点は取れない。単発で終わるトリッキーなプレーの方が評価しやすいし目に止まる。監督としては波がある100の選手より、常に60-70の力が計算できる選手の方が使いやすいからその部分の評価が監督と見てる方では差があるのは仕方ないこと。クライフもよくロナウジーニョではなくデコを評価するコメントを出す。確かに今のバルサがあるのはデコシャビあたりの中盤の貢献度が高いのは誰の目にも明らか、でもバロンドールを取るとしたらロナウジーニョというのは誰もが納得してるはず。
ここまで書いといてあれだけど、モウリーニョからランパードへのこのメッセージは宮内さんや北澤が言ってるのとは少し意味は違うか。その視点で言うとロナウジーニョだって試合で常に100を出してるわけではない。60-70のプレーであのレベルなのかもしれない?ただ素晴らしいテクニックを100とした場合に、逆に20くらいの消えてる時間が多い試合も以前はよく見た。*2そういう部分が100のプレーを意識しすぎることで表れてしまうならもったいないということ。でもこれは例として上げただけでロナウジーニョクラスだったら100とか60とか関係ないプレーレベルなので僕としてはがんがんやって欲しいと思う。僕は監督でもないし金払う客としては100のプレーを見たい。ダフ-ロッベン-エッシェン-グジョンセンがいるのにチェルシーの試合がそれほど面白くないのはリスクを抑えたカウンターサッカーより、監督視点のきっちり60-70%サッカーのせいかもしれない。が、それでも数字通り100の力にはかなわないもの。バルサの守備網(オレゲル)が破綻しなければ攻撃陣の計算式では勝ちがあるのみ。あーチャンピオンズリーグが待ち遠しい。

じゃなくてつまり、試合で自分本来の力が100だと信じてプレーするか、60-70あたりだと受け止めてプレーしているかという差。この認識の違いは精神的な部分だと言っても、かなり大きくプレーにも影響してくる。
練習でできること(たまに成功するいいプレー)を100としてそれを常に出したい、やれるはずという「自信」を持って試みるプレー。60-70の力を常に出していこうという「自信」を元に出すプレーでは、トラップパスシュート、どれ一つ取っても全く違うプレーが選択されてしまう。試合で100を目指してしまうと100というのは最高点であって、言わば限界点でもあるわけで、常に100を意識したいっぱいいっぱいの状況判断では視野の塞がりなど他に失う部分が多すぎてしまう。結局平均したら100どころか50すら届かない出来な上に、目標設定が高いため試合後の満足度まで最悪なものに。
最近ガッタスの選手からよく聞こえてくる「練習でできることを試合で出す」
この意識は普通のことでどこのどのスポーツ選手にも共通の認識だろうけど、この「できる」という部分の位置付けがキー。ガッタスではまだその「できる」の中身が100なのか60-70なのかちょっとわからない。練習で出せる100のプレーができない苛立ちが伺える選手も多いので、この部分はそれぞれ個人で違う受け止め方をしているのかなと勝手に想像してそろそろこの話まとめたい…

このところの試合後のすっきりしない表情を見てるとチームとしてもそこらへんの線引きが定まってないのかもしれない。どういう展開だったら「いつものプレーができた」と感じられるか、練習でできる「100のゲームメイク」を常にやりたいと思ってプレーしているのならあの内容では全く満足できないはず。100を目指すのは悪いことじゃないし、ガッタスの責任(と言ったら変だけど)フットサルを広める任務を持っているのなら*3100というか150から200あたりを常に意識して練習しないときつい。
ただ実際の試合では「100ができないのは当たり前のことだ」と軽く割り切れてる選手があまりいないように思える。プロのサッカー選手にも無理なことなんだからその部分で悩むことはないのに。
北澤が前に試合では60%くらいの力しか出せない、だから練習から120あたりを意識してやってみよう的なことを(たぶん)言っていたけど*4それプラス試合で60-70の力を常に出すことの難しさ、大切さ、重要性も伝えてもらいたい。
スポーツをやってて楽しいことって試合に勝つことが一番だけど、凄いフェイントやテクニックを真似て自分のものにできた瞬間だったり、習得した個人技を誰かに披露する快感もかなり大きいと思う。100を封印しろということではなくて試合での意識の持ちよう、ガッタスの対戦相手は守備意識が強いとこが多いので、100以上の力を出さないと攻撃面では崩せない試合が今後逆に増えそうな感じもするが、60-70の力で視野広くプレーすることがやっぱ大事なんだよと。100が常にできないことに苛立つ必要は全くないし、かといって60-70でセーブし続ける必要もない。見てるのはモウリーニョみたいな監督ではなく1プレーに湧くお客さんだから。

思い込みだけでこんだけ長いの書くってガッタス愛に溢れてるのかなんなのか。
今日はアーセナルの試合が久しぶりに生で見れる。

*1:ガッタスとサッカーの思考回路が完全に混線してる

*2:wowow解約してしまったので最近のリーガ見れない…

*3:短期間でレベルアップを目指すのには

*4:練習から120%くらいの心持ちでやるのはガッタスの成長に欠かせない部分なのでいいことだと思う